落花は枝に還らずとも
秋月悌次郎って、それほど知名度が高いわけではありませんよね。私も名前は知っている程度でしたが、どんな一生だったのか、興味はありました。上下巻あって長いし、資料の引用が多くて、そうろう文を何度も読まなくちゃいけないし、何かあると悌次郎はすぐ漢詩作るし、決して読みやすい本ではありません。
で、面白くはなかったのかというと、とても面白い本でした。
会津物はたくさんありますが、文官として容保を支えた本は多くありません。他藩にも知人が多かった悌次郎は外交官として、八月十八日の政変を成功させますが、佐幕派から嫌われ蝦夷地に左遷されます。
その後、再び召喚されますが、薩長同盟が終わった後で、いくら秋月でもどうにも出来ず、その後の会津はよく知られた道をたどります。
政変が日々変わる時期に、悌次郎が京都にいなかったこと、逆に言えば、身分にこだわり、下の者の意見を聞かない会津の風潮。そして容保の不器用ともいえる真っ直ぐな生き方。それらがすべて負になって会津戦争になってしまったのかな、と思います。
この本で一番興味を持ったところは、降伏を決めた後のことでした。テレビなどでは降伏で終わりますが、その後に、とても大変な仕事がありますよね。使者になるのも命がけだし、儀式の手違いは許されない。そのどちらも、悌次郎は抜かりなく手配します。
猪苗代湖の謹慎所を抜け出し、長州の奥平謙輔に会いに行き、山川健次郎らを託す手配をします。越後にいた奥平に、会いに行った時に読んだ詩が、有名な「北越潜行の詩」です。本の題名「落花は枝に還らずとも」とは、花は散っても、種を残し、そこから新しい芽を出すという意味です。晩年は熊本の第五高等学校の先生になり、同僚だったラフカディオ・ハーンは「神のような人」と記述しています。
ずっと会津物を読んで、また「八重の桜」を観て、一つの出来事でも、いろいろな角度から見ると違った見方が出来ると思いました。歴史に「もしも」はありませんが、もしあの時、〇〇だったら、会津は賊軍と呼ばれることはなかったと思うことが度々でした。