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2013年4月23日 (火)

出光佐三さん

読書メーターの感想を読んでいると、出光佐三さんの名前さえ知らない人多いんですね。
私は、松下幸之助さんレベル位には知られている方かと思っていました。

私も父からのまた聞きでしかないんですが
「この本は本当に全部ほんとのことか」という感想には、知っているかぎり嘘はないと思うよ。
「こんな経営者のもとで働きたい」という感想には、並大抵のことではないよ。
とひとつひとつコメント入れたくなります。

父が現役の頃の、出光人の働きは尋常ではありませんでした。
私も父と顔を合わせないのが普通。出張に行っていたことを知らないのも普通。
夜遅く、父が帰宅した時に、母が寝てしまって、家に入れなくてうろうろして
警察官から職務尋問を受け「ここは俺の自宅だ」との騒ぎにやっと母が目を覚まし、騒ぎが収まったこともあったっけ。

タイムカードがないってことは、残業手当もないってことなのよ。
私が子供の頃に、どれくらいの給料をもらっていたか知りませんが、それほど破格の額をもらっていたとも思えません。
それでも、父だけじゃなく出光の人はとにかくよく働いていました。
昔だからともかく、今じゃまず労働基準法違反でしょうね。

嘘は書かれてはいないんですが、私が父から聞いてる佐三さんは、なんといったらいいのか、、とにかく「でかいことが好き」な方でした。
例の日章丸事件も「日本の未来のため、イランのため」との記述もほんとのことだとは思います。
でも、企業人として「誰もやったことがないことに挑戦する」という気持ちもあったんじゃないかな。
日章丸が原油を積んでもどってきたことで、出光が大きく発展したことも事実ですし。
出光丸が「日本一のタンカー」として、就航したときのごきげんさは子供のようだったそうです。

頑固だったのも本当みたい。今でも出光のスタンドに書かれてる「出光」の文字。あれは店主の文字なんですが、たまたま、一緒の車に乗っていた時「光の字が違う。あのスタンドとは契約解除だ」と言い出して、父が「まったく、目が悪いと言いながら、ああいうところだけは見えるんだから」とぶつぶつ言いながら騒ぎを収めたこともあったそうです。

父は支店勤務がほとんどだったので、本社に右翼が乗り込んだことは知りませんでしたが、勘違いもはなはなだしい。
あの方ほど「日本人」を感じさせる方はいませんでした。
あの頃の出光は「社員は家族、その家族も家族」という考えで家族会というパーティが年に一度ありました。
パーティの始まりはまず「皇居遥拝」で、皇居の方角を向いて頭を下げるというというもの。
子供の私は「何のこっちゃ」って感じでした。

「海賊とよばれた男」を通じて、ずっと父の人生を追っていました。父が就職したのは昭和の初めの頃。
エリートは炭鉱に就職するという時代でした。父自身も出光がこんなに大企業になるなんて思っていなかったはずです。
私も、山もない変わりに谷もない平凡な人生をずっと歩むものだと信じていました。
それが、去年突然谷底に落とされて、どうしていいのかわからず、もがいていました。
今も心は谷に置いたままです。今でも聞けないものが「鳥取」という単語です。
「鳥取県の…」とニュースが始まるとチャンネル変えます。NHKの復興ソング「花はさく」が始まると消音にします。
でも今は「それはそれでいいんじゃない。こうなった限りは、孫たちが谷に行かないように見守ることが私の役目だ」と思えるようになりました。

父がよく言っていた言葉「人間万事塞翁が馬」この言葉が思い出されます。

2013年4月15日 (月)

海賊とよばれた男

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息子のことがあってから、全然本を読まなかったわけではないけれど、とにかく頭に入らない。読みやすいはずの佐伯泰英さんの本も全然頭に入ってなくて、磐音シリーズの「秋思ノ人」も2冊も買ってしまったような次第です。

本屋大賞というのにも全然興味がなくて、出光佐三さんがモデルでなかったら、きっと買わなかったと思います。

私の父は、戦争に行っていた数年間を除いて、出光に50年以上勤務していました。退職して数年で他界してしまったので、父の人生そのものが出光だったともいえます。父には出光佐三さん(店主)がもっとも尊敬していた人でした。実家には店主の著書が何冊もありましたが、私は読んだことがありません。でも、折につけ、店主のことはよく話していましたので、この本には、断片的には記憶のある話がいくつもありました。

社員とその家族向けに作られた映画があって、私も仕方なく見に行ったことがあります。題名も忘れたし、映画の内容もほとんど忘れたのですが、佐三さん役が(記憶違いでなければ)木村功さん、その木村功さんが油のビンを持って売り歩くシーンだけは覚えています。この本を読んで、満鉄に油を売りに行った時のことだと初めて知りました。

上巻の初めにタンクの底を浚う作業が出てきますが、父も実際にその作業をしていたそうです。油泥棒に間違われて警察の留置場で一晩過ごしたこともあったとか。「あの仕事はきつかった」と笑いながら何度も話していました。父は戦争中のことは、ほとんど語らず他界してしまったので、それに比べれば笑えるほどのことだったのでしょう。

それにしても、後に社長なる東雲さん(もちろん本名も存じておりますが、あえて本の通りに東雲さんで通します)までその作業をされていたとは知りませんでした。詳しい経歴はこの本を読んで知りましたが、エリートだということは知っていましたので。タンク底の作業は、父のような若造の仕事だと思っていました。

もう40年以上も前のことだから書いてもいいかな。その東雲さんからお電話があり、たまたま私が電話をとり「東雲ですが」と言われ、あわてて母に変わりました。「何事?」と聞くと「奥さんが外出中に灯油が切れちゃって、寒くてたまらん。どこに電話したらいいのか、と聞かれた」とのこと。石油会社のお偉いさんが灯油で困るなんてね、うちに電話する前にどこか販売店に電話したら、すぐにでも飛んでくるのにね、と思わず笑ってしまいました。会社では切れ者の方も、家庭内のことは皆無だったようです。

一度だけ、私も店主にお会いしたことがあります。本にも出てくる桑原先生のところです。そのころ父は知多の製油所を作る仕事をしていましたが、店主の紹介で桑原先生のところで白内障の手術することになり、しばらく赤坂にあった寮に滞在していました。その付き添いで桑原先生のところに行ったとき「店主だ」と父が緊張するので、娘の私は緊張しまくり「父がお世話になっております」というのが精一杯でした。そのとき「こいつは(父)やんちゃで、おれの言うことを素直に聞かないんだよ」とニコニコしていらっしゃいました。
もう40年くらい前のことで、一瞬の出来事でしたが、人物の大きさは十分すぎるほどわかる方でした。

我が家にはずっと仙厓さんの絵が描かれた出光のカレンダーがかけてあって「これ、一年に12枚でしょう、仙厓さんの絵がなくなったら、最初にもどるの?」と父に聞いたら「いや100年分くらいは店主が持ってるらしいよ。少なくともおれが生きてる間は大丈夫」と笑っていたことや、あれこれ思い出してしまいました。

このタイミングでこの本に出会えたことは、息子のことでふさぎがちな私に、父が「負けるな」と応援してくれているような気がします。読了後、声を出して泣きました。あちらの世界で息子は父から「こんなに早くこちらに来て、ばかもんが!」(よく部下を電話でそう叱っていました)と叱られているかな、それともひ孫の成長をそっと守ってくれてるかな。
百田先生には、感謝です。

2013年4月14日 (日)

一年たって

息子の一周忌を終えたところです。息子の病気の重さに気がつかない自分の愚かさを責めた一年でした。この思いはずっと今後も続くと思いますし、この一年で辛さが減ったかと言われれば、いいえとしか言えません。

心が鉛になってしまったような気分は一生付き合わなければいけないものだと覚悟しています。一年間、最小限の家事をし、お墓参りをする他は何をする気力もわきませんでした。今でもほとんど引きこもり状態ですが、幼い孫の将来を見守るために、一日でも長生きしようという気持ちにはなってきました。

いろいろご心配くださって、メールをくださったり、お手紙をくださった皆様ほんとうにありがとうございました。夜は睡眠薬なしでは眠れませんが、昼間はほぼ正常生活を送っております。たまにはお友達とランチをしたり、おしゃべりをしたり、笑って話せるようにはなりました。


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久しぶりに石けんを作ってみました。石けんのストックがなくなってしまって、だんなには市販の石けんでごまかし、私も体はボディシャンプー、洗顔だけは自分の石けんという生活をしていましたが、娘に(元気づけるつもりかもしれないけれど)「お母さんの石けんじゃないと肌が荒れる、また作って」と言われ、「缶が錆びちゃってる。これ、いつのオイルだ、まぁ食べるわけじゃなし、大丈夫だろう」と作ったアボガドオイルのマルセイユ石けんです。
基本的には四角い石けんが一番使いやすいと思っていますが、残ったアボガドオイルを全部使ったのでアクリルモードに入りきらずに、ご覧のような天使模様になりました。

香りはベルガモットのみ。すぐに香りがなくなるような気もしますが、エッセンシャルオイルの香りは結構癒されるものだということがわかりました。

また、マイペースでぼちぼちとブログも更新したいと思っています。またよろしくお願いします。

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